Y15ディンギーで屋久島へクルージング
赤草岳(月刊舵誌1984年2月号)
ディンギーはご存じのように、外洋を航海するためにつくられたフネではない。沿岸で2、3時間遊んだり、たまにディセーリングをするのが通常の乗り方であろう。
ところが外洋を走るには危険極まりないディンギーを自作し、一人で外洋を航海する人もいる。横山晃さん、加藤十郎さんについては前号までに紹介した。そして今回は、赤草タケシさんに、危険に満ちた旅の話しを聞かせてもらおう。
≪悩み≫
―――赤草さんは自作のY15で九州の屋久島までいかれたそうですが。
「はい、もう4~5年前のことなのです」
―――大阪を出発して、室戸岬や足摺岬をまわっていかれたそうですが、危険は感じられませんでしたか。
「それはもう、大阪を出た時からありました。生きては帰れないかも知れないと、思うてましたから」
―――その航海をどうしてもやらなければいけない理由でもあったのですか?
「個人の悩みですから、お話ししにくいですが・・・・・・。一つは、私はある女性と同居していたことがありまして、一年半ほど生活をしてたんです。とごろがどこかで、『このままでええのか?』と疑問に思うとるわけです。それまで私は世界中を放浪してきておりましたし」
―――どういうことでしょうか。
「いったい何のために生活してるのや、何のために仕事をするのや、人生は何のためにあるのや―― そんな問いが自分の内部から突き上げてきて、どうしようもなくなったんです。」「そこでなにがなんだかわからないうちに、Y15に乗って海へ出てしもうたんです」
≪逃亡≫
―――彼女とは?
「しばらくして、結局別れました。」
「逃亡したような状況でした。海の上でもいつもビクビクしとるんです。内面では『お前は何のために行きていくのか』と刃を突きつけられているし、外面では自然に対して常に目を配っているのです。風が吹きだしてくると、『これはひょっとすると嵐の前触れではないか』と風上の雲を見ながら心配するんです。海が襲いかかる前に、こちらはサッと逃げていくしかないのでね。かと思えば、凪になると今度はイライラするばかり。一日に10マイルも進まんので腹が立ってくるんですよ」
≪師と出会う≫
「やっと高知へ着いたんですけど、海と自分のこころという、両面の敵を相手にしとるような状態なんで、ちっともくつろげんのです。悩みは深くなるばかりでした。」
―――それで、どうされましたか。
「高知ではずい分お世話になりました。セーリングショップの黒岩さんや畑山さんたちの高知ヨットクラブの方たちに、たいそう歓迎してもろうたのです。皿鉢料理やカツオのタタキを作ってくださって、毎晩酒盛りなんです。私の沈んだ気持ちを感じとられて、元気づけようと考えたのかも知れません」
「次の日、二日酔いのまま一人で街へ出て本屋に立ち寄りました。そこで、『禅思想』という中公新書を何げなく買って帰ったんです。ところがこの本がクセモノでした。バスの中で読み始めて、フネに帰ってからもランプを点けて読み続けました」
「ダルマの問答という所があって、エカという人がダルマに問うわけです。――『私は不安でたまらんのですが、どうかあなたの力で落ちつかせてください』するとダルマは『よろしい、君の不安のもとという心を持って来なさい』――なるほどそうか!」
「人生には苦しみも楽しみもない。あるのは地水火風という構成の移り変わりだけである。こうも書いてあったので、もうたまらんかったですね」
―――その本の著者は?
「柳田聖山という、京都の人です」
「二度と帰れなくてもよい、そんな気持ちで大阪を出発しましたが、この時、この柳田さんという人に会うまでは死ぬのはやめとこう、という気持ちにまでなりました」
≪つづく旅≫
「高知からは菅さんという中年のお医者さんと2人旅になって、足摺岬まで航海を続けました」
「足摺は青木さんもご存知でしょうが、潮がとても速い。それで岸寄りの反流を狙って、ショートタックで岩の間をすり抜けていきました。ふと風上を見ると、黒雲が押し寄せて来ている。これはいかんと思うたのですが、岬を廻りきるまではリーフするわけにはいきません。潮と戦っているのですから」
「案の定黒雲に襲われました。それも突端にある臼婆という岩をまわらんとしているときなんです。バシッと一撃が来たかと思うと、Y15はもう沈寸前で、コックピットには波が入ってきた。菅さんはティラーを押してハイクアウトしている。メインシートもジブシートも放しているのですが、フネはヒールしたまま臼婆めがけて流れていくんです」
―――絶体絶命ですね。
「そうです。岩には太平洋のウネリが砕け散っているし、フネは舵も効かない。タックも何もできない。どうしようもないのです」
自作のY15で屋久島をめざした赤草さんは、高知から同乗した中年のお医者さんである菅さんと旅を続けた。そして2人は足摺岬を回航の最中、突風に襲われたのである。
≪つづく旅≫
「フネはヒールしたまま、岩礁に吸い寄せられていくんです。岩には太平洋のうねりが真っ白く砕け散っていました」
―――それでどうされたんですか。
「Y15はえらいものです。ヒールして、風下から水が入ってきているのに沈みはしなかったのです。それでサッとジブを降ろし、メインもリーフしました。キリキリとメインシートを引いたところで、菅さんがすかさずタックしてくれ、岩礁を避けることができました」
「突風は一時間ほどで止んだので、ようやく土佐清水へ入りました」
―――よく切り抜けられましたね。
「ええ、ほんとうにフネに助けられました」
「でも菅さんが、安堵からか、急に激しい神経痛に襲われましてね、土佐清水入港後、すぐに旅館に入り休みました。翌日にはなおったようでしたが・・・・・・そのときは旅館の階段も上れないくらいの痛さだったようです」
―――それで翌日にはまた出港したのですか?
「ええ。土佐清水を出港し、沖ノ島に寄りました。菅さんは神経痛にこりたのか、土佐清水で私と別れました。フェリーで先に宮崎へ行かれました」
―――一沖ノ島から宮崎までは何マイルほどあるんですか。
「80マイルです。36時間かかりました」
―――1日半ですね.....そんな長時間をどうやって走らせるんですか。
「ティラーはゴムでくくってあるし、フネまかせですよ」
―――夜もですか?
「はい、風が弱かったのでこの時は寝過ぎてしまって困りました。寝ていても周囲の状態はある程度つかんでいるんでしょうね。穏やかだからいつまでも寝ていられるんです」
「横山晃さんは、ディンギーのナイト・セーリングのときは、紅茶をガブ飲みして、目を凝らしておられるそうですが、私はすぐ眠くなるので、その間は横になることにしています」
―――なるほど。
「宮崎に着いて、たんぽりへ上っていきました。すると、『おーい、赤草はん』と叫びながら、菅さんが走ってくるのです。この日は2人で大分ビールを飲みました」
「また二人旅になり、目井津から都井岬をまわりました。有明湾を横断して内之浦に近づいたんですが、風がバッタリ。それで2人して浜へ向かって漕ぎ始めたんです」
「すると通りがかりの漁船が曳いてくれるというので、連れられて小さな船だまりに入っていきました」
「岩陰でメシをたいていると、菅さんがスマガツオを2本ぶらさげてもどって来て言うのです。『エライコッチャ赤草はん。台風来てるんやて、どないしょ』と」
「カツオのお造りでウイスキーを飲んでると、ラジオが、沖縄に台風接近中、て言うとるんです。『菅さん、私はやっぱり行きます。一人で行きたい気がします』と私は言いました。『そうか、今度はワシも連れてってもらいたいけど、しょうないな。また屋久島で待っとるわ』と菅さんは納得してくれました」
≪再生≫
「朝、コックピットから起きると、うねりがすごい。岩からしぶきが飛んでくる。磯波をかわして漕いで出ました。山に囲まれていて風がないんです。ところが沖へ出たとたん、強風が吹きつけてきた。それからはプレーニングの連続です」
「大隅海峡は黒潮が相当流れとるんです。だから、そんな所で沈したらそれこそ太平洋に流されてしまうと、佐多岬をめざして、岸にへばりついて走っていきました」
―――しかし……よりによって台風が来ているのに……。
「ええ。でも台風はね、千載一遇のチャンスでもあるんですよ。東寄りの風が吹きますから。夏は大抵南西の風なんです。そんな上り風ではとても黒潮をさか上ってはいけないんですよ」
「佐多岬が見えてきた。ラジオは、昼頃には沖縄本島に上陸といってる。うまくいけば、強風圏に巻き込まれる前に屋久島へ着けるはずだと思いました」
「メインをリーフして、フネを沖へ向けました。モーターボートのようなプレーニングです。三角波の波頭の上を飛んでいくのです。振り落とされそうなのでロープで体を結びました。まわりは灰色の雲に覆われて何も見えませんでした。風がさらに強まってきたのでジブも下ろしました。Y15はそれでも突っ走っていくんです。私は死を考えました。もう私の意志で操っているのではないのです。フネ自身が自分で走っていくのです」
「すると突然、視界がサーと開けた。目の前に屋久島が浮かんでいる。種子島も硫黄島もある」
「その光景を前にして、『そうか』とわかったのです」
―――何がですか。
「さっき話したダルマの安心問答ですよ。私がこの旅に逃げだしたのは、自分の生きる目的を見失ってしまったからなんです。生きて帰らなかったらそれでもよい、という気でいたのですが、この死地を前にして、いっぺんに悩みがとけました」
「このY15は自分でフレームをつくり、外板を張って、自分の金で作った自分のモノだと思っていた。ところが今、台風の中心をめがけて突っ走っているこのフネは、私のモノではない。私の意志で操っているのではないのです。フネ自身の持つ運命に従って、こんな嵐の中を走り続けているんです」
「自分で作ったフネさえ自分のモノでないなら、この自分自身はいったい誰のモノなのか?」
「これから何のために生きていったらよいのだろう ―――。その思いから始まった旅は、別の問いを私に突きつけて来たのです。『お前は本当は誰なのか』と」
屋久島から帰った赤草さんは、旅の途中で感銘を受けた『禅思想』の著者である柳田聖山氏を訪れたという。そしてそこで坐禅を始めた。