白隠禅師「坐禅和讃」を読む 8/21 担当花本
一座の功をなす人も
積みし無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき
浄土即ち遠からず
一座・・・一人座る(座禅)事。仏
功・・・・修行の効果。念仏の功。仏
も・・・・もまた。古
無量・・・数的、量的、空間的に無限。仏
罪・・・・悪。苦。宗教的に非難される行為。善男善女から非難される行為仏
ほろぶ・・絶えてなくなる 古
悪趣・・・悪い所。悪行の結果として受ける生存の状態。迷いの世界。
苦しみの生存。仏
浄土・・・煩悩の穢れを離れた清らかな世界。仏のおられる世界。極楽。仏
(仏・・・仏教語大辞典 古・・・古語辞典)
一人静かに座禅を組み、その修行の効果があらわれた人もまた、
今まで重ねてきた数多くの悪い行為や、(人生の)苦労が消え果ててしまう。
悪行や心の迷い、苦労などはどこにもないはずである。
言いかえれば仏のおられる清らかな世界は(自分自身の)すぐそばにある。
(花本 訳)
ひととき、心をおちつけて静かに座った人は
悩みごとなど実はなかったんだ、と気付くのです。
悪い出来事など一体どこにあるというのでしょう。
極楽は今ここにあるのです。
(臨済宗妙心寺派 松尾山 聖福寺 HPより)
私が終の棲家を探している時、一緒に住んでいる体の不自由な母はしばしば私に噛みついた。私の肩、腕、指など文字通り噛みつくのである。そしてそれを見ていた彼女の犬もよく私に牙をむき噛みついてきた。
ところが半年前、終の棲家を決定し、引っ越し、生活が落ち着いたころ、母の「噛みつき」がピタリと止まり、1ヶ月後犬も大人しくなった。
引っ越し前と引っ越し後の生活リズム、また生活内容は、どう考えても変化がないのである。なぜならそれは常に母中心の生活であったから。
そこで気付いたのが私の精神の「焦り」と「ゆとり」である。
新しい住居の窓から見える景色が大変気に入り、それが心を癒してくれる事と、自分の人生の根を張る場所が見つかった安心感で、私自身気付かなかったのだが、心にかすかな変化があったのであろう。
私の精神の落ち着きに感応するが如く、母の「介護者いじめ」に終止符が打たれた。つまり自分でも気づかぬ程のささいな変化だけで、それまでの、いつ噛みつかれるか分らないスリルとサスペンスの生活から解放されたわけである。
この経験から、自分の生き方、自分の周りに在る事象への捉え方をほんの少し変えるだけで、安楽な世界に座す事が出来るのではないかと気が付いた。
しかし上記した私事の気付きは大木の一葉でしかない。
白隠禅師坐禅和讃のいうところの「悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず」
の心境に至るのは、その時々の「気付きの一葉」ではなく、日常の、生き方の、思考の根底からの自己認識が必要だと思うのである。
自分を認識する・・・自分が「知っている」事を、知る。自分が「知らない」という事を、知る。自分のできることを、知る。出来ない事を、知る。
そして自分を知ることで自分自身を認める事が出来るだろうし、自分を認める事で周りにいる人々の個々も認める事が出来るのではないかと思えるのである。
話は変わるが、私はよく自問自答をする。「なんでこうなるんやろ?」「これだけ頑張ってもまだ終わらないのか?」などぶつぶつと考えていると、いつも頭の中にその答えが返ってくる。
それも自分で思いもつかない、且つ 賢く筋の通った返事が、である。
私を叱責、励まし、慰めるなどの答えではなく、淡々と「こういう理由でまだ終わらない」とか「今あるのは、あなたに必要だから」とか答えてくれる。
単純な私はその答えを信じて「それじゃもうちょっとこのまま行くかー」と思ってしまう。この『答え』は一人で踏ん張って生きている(つもりの)私には心強い存在である。
人間はきっと潜在意識の中で、起こっている事の意味、抱えてる苦労の必要性など理解しているのではないだろうか? だから自問自答している間に潜在意識が浮かび上がり、心に引っかかっている疑問に対し、端的な言葉で答えを
自身に与えるのではないだろうか?
私はその『答え』を私に内在する神様だと思い、大切にしている。
2 2010年8月21日 花本