4.白隠禅師「坐禅和讃」を読む 7/10 担当松田
夫れ摩訶衍の禅定は 大乗の禅は
称嘆するに余りあり いくら称嘆してもしきれないほどだ。
布施や持戒の諸波羅蜜 他人への施しや自分自身への戒め
念仏懺悔修行等 念仏や懺悔、他力の信心、自力の修行等
其の品多き諸善行 数々の善行があるが
皆この中に帰するなり それらは皆「禅定」の中に包括される。
<用語解説>
摩訶衍 大乗(Mahā〈偉大な〉yāna〈乗り物〉)という語は、『般若経』で初めて見られ、摩訶衍(まかえん)と音写された。大きい乗り物→大きい教え。
禅定 心を統一して瞑想し、真理を観察すること。またそれによって心身ともに動揺することがなくなった、安定した状態を指す。坐禅。
大乗仏教 伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の分派のひとつ。自身の成仏を求めるにあたって、まず苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)を救いたいという心、つまり大乗の観点で限定された菩提心(菩提(悟り)を強く求める心のこと)を起こすことを条件とし、この「利他行(自分の解脱よりも他者の救済を優先すること)」の精神を大乗仏教と部派仏教とを区別する指標としている。
持戒 戒を守ること。仏教において守らなければならない道徳規範や規則を守ること。
諸波羅蜜 諸々の波羅蜜。 彼岸(覚り)に到る行と解するのが通例である。玄奘以降の新訳では波羅蜜多(はらみた)は、仏教における菩薩(仏教において成仏を求める(如来に成ろうとする)修行者)の基本的な実践徳目である。六波羅蜜(ろくはらみつ)とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧のこと。「六度(ろくど)」とも呼ばれる。菩薩は、この六つの波羅蜜行の徳を蓄積して、遠い未来の生において一切智の正等覚者として無師独悟するといわれている。
※臨済宗 大光山 宝徳寺、ウィキペディア 参照
私の見解(松田)
大乗仏教の禅定はすべての善行を包括していると言っているが、はたして人との係わりを通して人生の苦しみ、悲しみ、喜びなどを経験せずただ仙人のように山奥にこもり、禅定だけすることによって何にも負けない心は得られるのだろうか?
本当の意味での凪のような心、魂は得られないのではないかと思う。人は人との係わりからしか得られないものが、たくさんある。人と係わらずして成長はないと思う。
またもし精神世界のことだけをするなら、肉体はいらないはずだ。肉体を持って生まれたということは、体を動かして生きていくということが大切だと思う。そのバランスが大切なのだと思う。
日々自分のやるべきことをし、淡々と生きていくことは実はとても難しく、とても大切だと思う。人との係わりを通して苦しみも悲しみも喜びも経験し、ハードル(私は人は今生で超えなくてはいけない業、ハードルをそれぞれいくつか持って生まれてくると思っています)を超えながら、またはいくつか超えた後の禅は、白隠禅師が言っておられるように、無限の可能性を秘めていると思う。それは空であり、FULL(満)であると思う。