2.Hakuin Zenji – Zazen Wasan(白隠禅師 ― 坐禅和讃)

 

Shu-jo chikaki wo shirazu shite
衆生近きを知らずして         私たちが仏であるにもかかわらず
Tooku motomuru hakanasa yo
遠く求むるはかなさよ         自分の外に仏があると思って あちこち探しまわっている
Tatoeba mizu no naka ni ite
譬えば水の中に居て         それは水の中にいながら
Katsu wo sakebu ga gotoku nari
渇を叫ぶが如くなり              のどが渇いたと叫んでいるような ものである
Chooja no ie no ko to narite
長者の家の子となりて         また、裕福な家の子に生まれたのに
Hinri ni mayou ni koto narazu
貧里に迷うに異ならず         貧しい里をさまよい歩いているのと同じである 

白隠禅師の描く達磨像にこんな言葉がありました。
直指人心 見性成仏 (じきし にんしん けんしょう じょうぶつ)
人間の心の根源を見届けて仏になりなさい、の意だそうです。
つまり、己自身を懼(おそ)れることなく見定める事だと思います。
例えば私の意見ですが、
ある物事や出来事に対し、「直指(じきし)」直視(ちょくし)できない場合も
多く、何だかんだと自分に甘かったり、知らぬ間に言い訳を考えたりした事っ
てありませんか?そんな内は、自分の中に確固として鎮座する“仏”には到底
たどり着けないのではないでしょうか。とにかく私には難しすぎます。きっと
心のどこかで、わたしのような凡人には悟る資格がないのでは・・と思ったり、
また資格があっても、厳しい修行を行った末には、外部から「仏心」が降臨し
てくるものかなと思ったりしています。ですが、お釈迦様や白隠禅師も私たち
が仏であると明言しています。
これからは、私自身出来る事(視る・発言する・感謝する・謝るなど)を徹底
して判断し、行動してまいりたいと思っています。
                        2010.5.22  片桐孝二

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