途端葊(トタン小屋)お茶日誌

お茶はおもしろい。ヨットと同じくらいに、おもしろい遊びだ。

お茶を飲みに来て頂くために、稽古をする。たかが一服のお茶であるが、おいしく飲んでもらうのは、とても難しい。

お茶の味がおいしいことは、無論である。しかしそれだけでは十分ではない。一緒にお茶を飲み、お話をして満足をしてもらうために、わざわざきて頂くのだ。
来て頂く相手の性格、環境、仕事、家族、そんな背景を考えて、できる限りの誠意を尽くす。

誠意は通じるときも、通じないときもある。通じなかったときは、それを自分の力不足と受け止めることで、上達を図ることができる。通じないのを相手のせいにすることは容易だ。しかしこれでは自分が情けない。ヨットも同じだ。思ったように走れないのを、クルーやヨットのせい、風のせいにしている限り、向上は望めない。
しかしながら誠意を、反対に受け取る人がいる。そんなときは、そのような人もいると受け止めて、付き合わないことにする。限りある人生に、つまらない人と付き合う必要はない。

柳田宗葩(そうは)先生の柴門庵は、京都鷹峯にあった。28才からの6年間、稽古に通った。毎週土曜日は始発電車に乗り、一番乗りをした。すると先生の点前で一服頂けるからだ。

その後大阪で、黒田宗光先生の白珪会に加えて頂き、稽古を続ける。しかし先生は2009年8月8日に逝去された。

お二人の師匠は、対称的な茶風であった。柳田先生は禅茶を追求されていた。稽古場は禅道場のような清潔さと静けさである。10名未満の弟子へ、禅に関わるお道具を使い、厳しい点前を示される。

それに対し黒田先生は、社会性を求めておられた。全国に300名を超える門人がいた。大阪の稽古場は、ビルの中に作られていた。高校、大学での授業も行われた。外国製の見立て道具をよく使われている。点前は、実に麗しい。人に不快感を与えない点前を追求されたとのことだ。

二人の師匠に恵まれた私は今、トタン小屋で自分にできるお茶を楽しんでいる。

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